税理士 岸野康之 事務所

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医療崩壊と聞いて

コロナ禍の状況下において、「医療崩壊」「医療が逼迫」と言われて久しい。

今日の医療崩壊の懸念は、コロナに罹患などした患者の受入能力がある、一部の病院に過剰な負荷がかかった状態から来ている。

とにかく医療者と生活者のことを思うと、この状況は、早晩に収まってほしいところである。

 

ところで、医療崩壊という言葉はこのコロナ禍に限らず、しばしば使われてきた。
僕が医療会計の世界に入った平成17年は、その医療崩壊の危機が進んだ時期だった。

まず当時は、平成16年から導入された「新・臨床研修医制度」の影響が本格化する前夜であった。

新・臨床研修医制度は、「白い巨塔」的な医局制度を改め、これまでの旧態依然とした医師研修制度を改革するために作られた。
超かんたんに言うと、医学部の卒業生たちが教授や医局の指示によらず、自由に臨床研修先=初期の勤務先を選べる仕組みだ。

結論としては、この制度で医師が自由に研修先や勤務先を選ぶようになり、全国的な医療崩壊が加速したと言われている。

育てた医師や学生が自分の大学に残らない結果、研究も診療も回らない地方の大学病院が続出。
仕方なく多くの大学病院が、「市中への派遣医師を大学に引き上げる」、という苦肉の選択を行うこととなった。

これにより平成20年前後は、全国で「医師不足」「医療崩壊」という言葉が聞かれるようになり、連日のように新聞を騒がせた。

 

同じ時期に、診療報酬のマイナス改定とその関連で、看護師の配置ルールが大きく変わった。

これにより、全国で「看護師争奪戦」が勃発。
この時期に看護師の獲得競争が加速し、看護師も「給料で」医療機関を選ぶ傾向が強くなった。

この診療報酬改定は、収入を下げてコストをあげる改定だったので、公立病院を中心とした医療経営を直撃した。

 

そして「医師不足」とか「医師の偏在」などと言われている間に、「救急、お産体制の崩壊」が進展。
「救急車のたらい回し」「お産の医療ミス訴訟」「産科撤退」という記事が、本当によく散見された。

いま僕が通う関与先で、この時期に救急や産婦人科を閉鎖して、再開できない病院も多い。

当時のお産体制はすでにひっ迫しており、常勤医一人で年間数百件の分娩を扱うなど、大変な状況にあった。
その医師たちが告発され逮捕され、マスコミは叩き、そして自治体は、医師たちを守らなかったのである。

で、「厚い体制でないとお産はできない」こととなり、分娩可能な医療機関が極端に減ることとなった。

無論、お産の安全体制が手厚くなったという点は、大変歓迎されるべきことだ。

しかし、この時期に「産めない街」が急増した事実は、少子化日本の動向と無縁ではないかもしれない。

 

国の医療政策がイマイチだったり、医療制度が複雑ということはある。

しかし、医療環境も医療体制も、絶えず変化している。
ある側面から見ると、絶えず崩壊しつつあるものを、大変な努力で守る人たちがいる。

このコロナ禍は国を、世界を揺るがす大事であるが。

僕たちは、願わくば一人一人が医療体制を守る一員として、日々行動していきたいものだ。

初めて、blogを書くことにした。

初めて、ホームページを使って、blogを書くことにした。

これまでFacebookやTwitterでは、日常の細々としたことを書いてきたが。

自分の経験、技術、そして思いを明文化する必要性を感じていたのだが、自分の言葉を残すのが怖かった。

しかし少しずつ、気を付けながら、書いていくことに決めたので、暖かく優しく見守っていただきたい。

 

さて「言葉を残すのが怖い」とは。

僕は20代の頃からずっと、言葉は「言霊」であると思っている。

実は言葉のことを「言霊」であると表現する人は、意外に多いし、よく目にする。

「良い言葉をつかうとそのようになるし、悪い言葉を使うとそのようになる」

というような趣旨で使われているのを、よく見かける。

 

でも、僕の言葉が「言霊」であるという用法は、それとは少し違っていて。

 

僕は、言霊という文字の通り、「言葉」は霊のようなもの。

一度、世に出した言葉は霊が宿ったようなものだと、捉えている。

僕は霊魂等は信じていないが、その表現方法が、大変しっくり馴染んでいる。

 

そう、言葉は一度活字にしたら、口に出したら。

二度と戻ってこない、カゴから出た鳥のように。霊が宿ってしまったように。

 

活字にする瞬間、口に出す瞬間は、その言葉は、まだ自分の言葉だ。その言葉は、自分のものだ。

でも、一度活字として出たら、口に出したら。

その言葉はもう、自分ものではない。

言葉は、霊や生命が宿ったように勝手に飛んでいく。

それを見た人、聞いた人は、僕の意図と近い理解をする人もいれば、全然違う理解をする人もいる。

でも、それをどうすることもできない。

言霊は、もう僕らの手を離れて、他人や歴史に対して勝手に作用していく。

だから「そんなつもりで言ったのではない」なんて言い訳は通用しないし、まして「撤回」「修正」などできない。

誤った言霊を送りだしたら、それを消すために次々と、別の言霊を送り出さねばならない。

その言葉たちが、また勝手に作用していく。

 

言葉は言霊。僕らの力が及ばないという点では、非常に「霊的」と言えるかもしれない。

政治家とか経営者というのは、図らずも言霊の威力をよく知っている人たちだと思う。

ただ、このインターネット社会というのは、彼らの想像をはるかに超えて、言霊が暴れやすくできている。

 

だから僕らは、自分の手元を飛び立った言霊を、誰がどう解釈し、どう使い、どのように跳ね返ってくるか。

自分の送りだす言葉が、世界中のあらゆる他人に作用する可能性に対して、ものすごく想像力が必要な時代だ。

 

僕は言葉を、そんな言霊だと思っているので、活字を残すということに大変慎重になっていた。

言葉で意思表示して、言葉で商売して、言葉を強く信じているにもかかわらず。

 

ただ、少し気持ちを切り替えて。

僕もその言葉を、言霊を、活字を残す作業を通じて、上手に扱えるようになってみようと思う。

 

岸野康之 拝

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