税理士 岸野康之 事務所

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初めて、blogを書くことにした。

初めて、ホームページを使って、blogを書くことにした。

これまでFacebookやTwitterでは、日常の細々としたことを書いてきたが。

自分の経験、技術、そして思いを明文化する必要性を感じていたのだが、自分の言葉を残すのが怖かった。

しかし少しずつ、気を付けながら、書いていくことに決めたので、暖かく優しく見守っていただきたい。

さて「言葉を残すのが怖い」とは。

僕は20代の頃からずっと、言葉は「言霊」であると思っている。

実は言葉のことを「言霊」であると表現する人は、意外に多いし、よく目にする。

「良い言葉をつかうとそのようになるし、悪い言葉を使うとそのようになる」

というような趣旨で使われているのを、よく見かける。

でも、僕の言葉が「言霊」であるという用法は、それとは少し違っていて。

僕は、言霊という文字の通り、「言葉」は霊のようなもの。

一度、世に出した言葉は霊が宿ったようなものだと、捉えている。

僕は霊魂等は信じていないが、その表現方法が、大変しっくり馴染んでいる。

そう、言葉は一度活字にしたら、口に出したら。

二度と戻ってこない、カゴから出た鳥のように。霊が宿ってしまったように。

活字にする瞬間、口に出す瞬間は、その言葉は、まだ自分の言葉だ。その言葉は、自分のものだ。

でも、一度活字として出たら、口に出したら。

その言葉はもう、自分ものではない。

言葉は、霊や生命が宿ったように勝手に飛んでいく。

それを見た人、聞いた人は、僕の意図と近い理解をする人もいれば、全然違う理解をする人もいる。

でも、それをどうすることもできない。

言霊は、もう僕らの手を離れて、他人や歴史に対して勝手に作用していく。

だから「そんなつもりで言ったのではない」なんて言い訳は通用しないし、まして「撤回」「修正」などできない。

誤った言霊を送りだしたら、それを消すために次々と、別の言霊を送り出さねばならない。

その言葉たちが、また勝手に作用していく。

言葉は言霊。僕らの力が及ばないという点では、非常に「霊的」と言えるかもしれない。

政治家とか経営者というのは、図らずも言霊の威力をよく知っている人たちだと思う。

ただ、このインターネット社会というのは、彼らの想像をはるかに超えて、言霊が暴れやすくできている。

だから僕らは、自分の手元を飛び立った言霊を、誰がどう解釈し、どう使い、どのように跳ね返ってくるか。

自分の送りだす言葉が、世界中のあらゆる他人に作用する可能性に対して、ものすごく想像力が必要な時代だ。

僕は言葉を、そんな言霊だと思っているので、活字を残すということに大変慎重になっていた。

言葉で意思表示して、言葉で商売して、言葉を強く信じているにもかかわらず。

ただ、少し気持ちを切り替えて。

僕もその言葉を、言霊を、活字を残す作業を通じて、上手に扱えるようになってみようと思う。

岸野康之 拝


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